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古代出雲の神々が眠る
上ノ代

高天原伝承地

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ここは大国主の命が「この出雲の国は私が守り治める」と宣言した地であり、

古代出雲への玄関口として、かつて繁栄した赤屋地域は「たたら製鉄発祥地」として

今もなお​語り継がれています。

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母里郷を一望する景色

​上の台より望む朝焼けの出雲母理郷

​出雲への玄関口

ここ母理郷(もりきょう)はかつて出雲の防衛線上の重要な地域で大国主命が自ら守り治めた地域でした。(母理(もり)の地名の由来は、大国主命が「守る」と宣言したことに由来しています。)

大国主命が越の八口を平定した帰り際にも、この地にある稚児岩にて八雲の国を治め守ると誓ったと言い伝えられています。

元島根県古代文化センター長の宍道正年氏は、「赤屋は古代出雲の東の玄関」だったと研究結果を発表されました。古代の幹線道路とみられる谷筋にある立地や石室の構造などの研究を踏まえ「赤屋は古代出雲の東の玄関だった」と仰っています。小丸子山1・2号墳は赤屋地区の谷沿いの山に古墳時代後期(6~7世紀)に築かれた前方後円墳で、全長35メートルという規模から有力な豪族がいたと考えられ、前方部と後円部にそれぞれ横穴式石室がある前方後円墳としては県内唯一の事例とのこと。鳥取県(伯耆の国)の米子方面に通じる赤屋の谷沿いは古墳が点在し、この谷筋は古代の幹線道路で赤屋は伯耆地方から出雲地方への玄関だったと結論づけています。 宍道氏は「古代の赤屋は交通の要衝として栄え、有力な豪族が誕生したのだろう」と見立てています。

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今なお残る高天原説

高台にひしめく無数の遺跡と古墳群

高天原説

上の台一帯には、標高300mという高台にも関わらず、縄文時代から古墳時代の遺跡が多数存在しています。古事記には、上の台と対を成す山である比婆山にイザナミノミコトが埋葬されたと記されています。柱状節理の結晶が龍の鱗を彷彿させた山容を持つ御神体・比婆山と現人神が代々君臨した上の台。古事記の舞台であったこの一帯における高天原とはもしかすると上の台であったのではないか?と考えられています。

※上の台は鶴山、比婆山は亀山、この2つの山を合せて鶴亀山(つるぎやま)と呼ばれています。

神々の代
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上の台日向尾根古墳群散策マップ

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